ところで1986年。チェルノブイリ原発事故もこの年の4月だったんですね。5月にはダイアナ妃の来日で大騒ぎ、カメラ付きフィルム「写ルンです」が7月に発売、9月には社会党の土井たか子さんが日本初の女性党首に就任、そして11月、三原山が噴火。
その11月は私にとって、大きな区切りとなる出来事がテレビ界で起こりますが、それはまた後で書きたいと思います。
清原選手の西武入団や、たけし軍団のフライデー編集部への殴り込みもこの年。ヒット映画は『子猫物語』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『ロッキー4』等。ディスコ「マハラジャ」のフィーバーもこの年だったんですねぇ… 世間は呑気でした。
さて私らは専門学校に通いながら『トワイライトシティ』の準備を進め、夏休みの1か月間を撮影に費やす計画を立てました。それで撮れると思ってたんです。
ところがいざ始まってみると、しょっぱなから計画は大きく崩れました。私が映画創りを始めたのは高校時代だけど、それは所詮ごっこ遊びのレベルでした。他のメンバーはみんな未経験でしたから、本格的な撮影のノウハウを知る者は誰もいなかったんですよね。
初日から三日間は知り合いのスナックを借り切って撮影したんだけど、全て台本の順番通りに撮って行く「順撮り」を選択…と言うかそれしか知らなかった為、1カット撮るたびにカメラ位置や照明ライトの位置を変えて恐ろしく時間がかかってしまい、予定の半分も撮れないまま三日間を消費してしまった!
本来、限られた時間内で効率良く撮影するには、同じアングルからのショットだけをまとめて撮る「固め撮り」をしないといけないのに、誰もそんな事は知らなかったんです。
しかも! 撮影は8ミリフィルムで行ってましたから、ビデオと違って撮影してすぐには映像をチェック出来ないんですね。現像所に出したフィルムが戻って来るまで4〜5日かかっちゃう。だから我々は、仕上がりを一切チェック出来ないまま三日間撮り続けたワケです。
で、戻って来たフィルムを映写してみたら… 真っ暗。なんにも写ってない。撮影時の露出計測のやり方が間違っていたのでした。三日間を費やしたフィルムの全てがパー。アジャパー。私はこの時、乳首を吊ってお詫びするしか無いと思いましたよホントに。
これはほんの一例です。学校でもこんな事は教わらない。とにかく経験が全てで、一つ一つ失敗して覚えるしかない。撮影は1か月どころか、最終的には2年近くかかってしまった! いや、確か卒業した後もやってたから、2年以上ですね。
撮影が終わってからも、大きな課題がありました。フィルムの編集は良いとして、音声を効果音やBGMとミックスしてフィルムに録音するノウハウが、まだ我々には無かったんです。今ならパソコンで難無く出来る作業ですが、当時は全てがアナログでした。
当初は学校の機材で出来るものと思ってたけど、16ミリフィルム用の機材はあっても、8ミリフィルムにはそもそも音声に関する機材が世の中に存在しなかったんですね。我々はどうしょうもなく無知だったんです。
どうする事も出来ず、『トワイライトシティ』のフィルムは一旦お蔵入りにしたまま、我々は別の作品創りで試行錯誤を重ね、音楽用の機材を使って音声をミックスするシステムを独自に開発したのでした。
それが’92年頃で、撮影開始から実に5年後の事でした。5年… 同じ5年でも、歳を重ねてからの5年はそんなに長く感じないけど、若い時は違います。特に’86年から’92年の5年間、私は何本も作品を創り続けて、映画創りに関してだけは著しく成長してました。
’86年に書いた『トワイライトシティ』の脚本。その時は「傑作だ!」って思えた脚本が、’92年に読み返してみたら、それこそ穴があれば入りたいほど陳腐に感じてしまう代物に、自分の中で変化しちゃってたんですよね。
脚本だけじゃなく、自分の演技も演出も、5年前のそれは見るに堪えられないレベルでした。このまま完成させても、人には見せられない… でも、2年以上もかけて撮った、仲間達の血汗の結晶をこのまま葬るワケにもいかない…
考えた挙げ句に、既に編集して100分近い尺になってたフィルムを、私は再編集して30分以内の尺に縮める決意をしました。実に三分の一以下の短さです。稚拙なドラマ部分は断片的にしか残さず、アクションシーンを中心に見せる構成にしたんです。
そうなると場面が飛んでストーリーが解らなくなりますから、あえて台詞は聞かさず、思い切ってナレーションだけで進行させる手法に切り替えました。ナレーションと効果音とBGMだけの、いにしえの無声映画に近い形です。
兄ちゃんや直美さんはじめ、キャスト&スタッフにはホントに申し訳なかったですm(_ _)m 全ては私の見通しの甘さや無知が原因です。でも自分としては、これ以外に完成させる術が無かったんですね。
本当に申し訳ないんだけど、結果的に『トワイライトシティ』は私にとって修行の場、メンバーにとって強化合宿みたいなものでした。学校で教わった事よりも、この作品の撮影で経験した事の方がはるかに、その後の作品製作に役立ってます。
願わくば兄ちゃんや直美さんにとっては、しんどいけども楽しかった、青春の思い出の1ページであってくれればと思ってます。
屁こき猫の専務、まだ髪フサフサのタヌ、朝から焼き肉のアブ、バッタもんのフミヤみたいなAB、戦隊ヒーローの悪者デーモン、銃と下ネタの宝庫マドカetc… あんまり楽しい思い出でもない?w 忘れたいけど忘れられないw
ところで『トワイライトシティ』はそもそも、私なりの『太陽にほえろ!』を創る事が企画の原点でした。その『太陽』がこの’86年の11月(私の誕生月)に最終回を迎えたんですよね。
小学生時代から存在して当たり前の、自分にとって青春そのものだった番組が、映画人生の出発点となった年に消滅した事には、不思議な縁を感じずにはいられません。まぁ、正確には翌年の春まで『PART2』が放映されてたんだけどw
それにしても、長い人生の中でも’86年の夏休み、毎日撮影に明け暮れたあの1か月ほど濃厚な日々は、ちょっと他には無かったような気がします。ホントに忘れられない夏ですね。