今朝の『純と愛』を観て、又ちょっと考えが変わりました。と言うのも、愛(風間俊介)がこんな事を言ったんですよね。
「純さん、今こそ変わる時ですよ」
「大人になるべき時なんです」
うろ覚えなんで言い回しは違ってるかも知れないけど、これはけっこう重要な台詞ですよね? 「純さんはずっと今のままでいて下さい」ってのが決まり文句だった筈の愛が…
ただし「押し付けがましい言い方をするのではなくて…」みたいな事も言ってましたから、根本的には今の純のままで、やり方をもっと考えましょうって意味だとは思います。
でも、作者がこのタイミングで「大人になる時」って台詞を言わせたのは、物語がいよいよ佳境に入って来た事を意味するんだろうと思います。
これまで、どんな悲惨な目に合っても純(夏菜)は挫ける事なく、自分のやり方を押し通して来ました。それも私を辟易させた要因の一つだったりしますw
でも、さすがにここらでヒロインを成長させなきゃならない。ヒロインだけじゃなく、その家族達も。職場や住居まで失っても変わろうとしなかったあの連中を、自分の意志で変わらせるには、これ以上は考えられない究極の試練を与えないと駄目だろう…
その為に用意されてたのが、お母ちゃん(森下愛子)の認知症ですよ。作者の体罰にも近いヒロイン虐めにこれまで我慢して来た我々視聴者も、さすがに見るに耐えられない程の試練。
人は簡単には変われない。変わるなら、よっぽどの事が起きなければ説得力がない。だから、視聴者の拒否反応も覚悟の上で、ラスボスとも言えるとっておきの試練をここに持ってきた。
実際、お父ちゃん(武田鉄矢)も、私が大っ嫌いな長男&次男もw、この試練でちょっとずつ変わって来ましたからね。
そう考えると、作者も決して軽い気持ちで認知症をネタにしたワケじゃなくて、相当な覚悟を持って視聴者に最後の喧嘩を売ったんだと解釈出来て、私の不快感もいくらか和らぎます。
それでも「やり過ぎ」っていう見解に変わりは無いですけど、やり過ぎない事には奴ら一生変わらないですからね。だから私は辟易してたワケです。やっぱ遊川氏の思うツボでしょうかね?w
そんな事を考えながら、前回記事へのサントラさんのコメントで「最後に大どんでん返しがある」「遊川氏おそるべし」って書かれてるのを読んで、とんでもない事を思いつきました。
これを思いついた時は「こりゃ凄い!」ってテンション上がったんだけど、時間が経つにつれ「いや、いくらなんでも強引すぎるか…」「これこそベタベタなオチか…」「乳首か…」って思えて来て、すっかり熱は冷めたのですがw、せっかく思いついたんで一応記しておきます。
もしかするとお母ちゃんの認知症は、家族を一つにする為の、お母ちゃん一世一代の大芝居なんじゃないでしょうか? それをそそのかしたのは、たぶん愛。どうでしょうか?
だって、お母ちゃんが認知症になったまま最終回を迎えるのは、いくら何でも後味悪いし、かと言って家族の愛によって奇跡の回復!なんて話を、あの遊川氏が書くとは思えないでしょう?
私が「やり過ぎ」って書いたのは、ここまでやっちゃったら話の収拾がつかないだろ?って意味も含んでるんです。収拾をつけるには、こういうオチをつけるしか無いんじゃないかと。
まぁしかし、こうして展開をあれこれ考えさせられる事こそが、ホント遊川氏の思うツボなんですよね。『家政婦のミタ』の時とまるで一緒ですもんw
その作品や描かれるキャラクターも含めて、どうにも好きにはなれない脚本家さんだけど、視聴者を巻き込むテクニックにおいてはリスペクトせざるを得ません。
そんなワケで、やっぱ『純と愛』は最後まで観るしか無さそうですw
「純さん、今こそ変わる時ですよ」
「大人になるべき時なんです」
うろ覚えなんで言い回しは違ってるかも知れないけど、これはけっこう重要な台詞ですよね? 「純さんはずっと今のままでいて下さい」ってのが決まり文句だった筈の愛が…
ただし「押し付けがましい言い方をするのではなくて…」みたいな事も言ってましたから、根本的には今の純のままで、やり方をもっと考えましょうって意味だとは思います。
でも、作者がこのタイミングで「大人になる時」って台詞を言わせたのは、物語がいよいよ佳境に入って来た事を意味するんだろうと思います。
これまで、どんな悲惨な目に合っても純(夏菜)は挫ける事なく、自分のやり方を押し通して来ました。それも私を辟易させた要因の一つだったりしますw
でも、さすがにここらでヒロインを成長させなきゃならない。ヒロインだけじゃなく、その家族達も。職場や住居まで失っても変わろうとしなかったあの連中を、自分の意志で変わらせるには、これ以上は考えられない究極の試練を与えないと駄目だろう…
その為に用意されてたのが、お母ちゃん(森下愛子)の認知症ですよ。作者の体罰にも近いヒロイン虐めにこれまで我慢して来た我々視聴者も、さすがに見るに耐えられない程の試練。
人は簡単には変われない。変わるなら、よっぽどの事が起きなければ説得力がない。だから、視聴者の拒否反応も覚悟の上で、ラスボスとも言えるとっておきの試練をここに持ってきた。
実際、お父ちゃん(武田鉄矢)も、私が大っ嫌いな長男&次男もw、この試練でちょっとずつ変わって来ましたからね。
そう考えると、作者も決して軽い気持ちで認知症をネタにしたワケじゃなくて、相当な覚悟を持って視聴者に最後の喧嘩を売ったんだと解釈出来て、私の不快感もいくらか和らぎます。
それでも「やり過ぎ」っていう見解に変わりは無いですけど、やり過ぎない事には奴ら一生変わらないですからね。だから私は辟易してたワケです。やっぱ遊川氏の思うツボでしょうかね?w
そんな事を考えながら、前回記事へのサントラさんのコメントで「最後に大どんでん返しがある」「遊川氏おそるべし」って書かれてるのを読んで、とんでもない事を思いつきました。
これを思いついた時は「こりゃ凄い!」ってテンション上がったんだけど、時間が経つにつれ「いや、いくらなんでも強引すぎるか…」「これこそベタベタなオチか…」「乳首か…」って思えて来て、すっかり熱は冷めたのですがw、せっかく思いついたんで一応記しておきます。
もしかするとお母ちゃんの認知症は、家族を一つにする為の、お母ちゃん一世一代の大芝居なんじゃないでしょうか? それをそそのかしたのは、たぶん愛。どうでしょうか?
だって、お母ちゃんが認知症になったまま最終回を迎えるのは、いくら何でも後味悪いし、かと言って家族の愛によって奇跡の回復!なんて話を、あの遊川氏が書くとは思えないでしょう?
私が「やり過ぎ」って書いたのは、ここまでやっちゃったら話の収拾がつかないだろ?って意味も含んでるんです。収拾をつけるには、こういうオチをつけるしか無いんじゃないかと。
まぁしかし、こうして展開をあれこれ考えさせられる事こそが、ホント遊川氏の思うツボなんですよね。『家政婦のミタ』の時とまるで一緒ですもんw
その作品や描かれるキャラクターも含めて、どうにも好きにはなれない脚本家さんだけど、視聴者を巻き込むテクニックにおいてはリスペクトせざるを得ません。
そんなワケで、やっぱ『純と愛』は最後まで観るしか無さそうですw