『聖白百合騎士団』の脚本執筆の際、参考として観たらメチャクチャ面白くてハマっちゃったアニメシリーズ『マリア様がみてる(通称=マリみて)』の、実写映画化版を観ました。
『マリみて』がきっかけで百合(女子どうしの恋が描かれる)アニメ作品をいくつか観まして、それぞれ面白かったのですが、決して『マリみて』を超える事は無かったんですよね。
『マリみて』は別格でした。アニメ作品としてのクオリティーでは、明らかに『マリみて』を凌駕してる『青い花』みたいな良作もあったけど、それでも『マリみて』で得られた感動には及ばなかったです。
なぜ『マリみて』は特別なのか? なぜ、あんなに深く感動出来るのか? 同じ百合を扱ってる他の作品群と、いったい何が違うのか?
その答えが今回、実写版を観てやっと解りましたよ! これは半年掛かりの『つばさ』レビューを終えた、今だからこそ出せた答えです。
それだけ言えば、『つばさ』レビューを最後まで読んで下さった方には、ピンと来るんじゃないかと思いますが…
原作は今野緒雪さんによるティーン向けの小説(いわゆるライトノベルズ)で、映画はその第1巻目(アニメだと最初の3話分)の内容がほぼ忠実に映像化されてます。
簡単に説明しますと、舞台は現代、高貴な家柄のお嬢様たちが集うカトリック系のミッションスクール=私立リリアン女学院。この学園では昔から、上級生が下級生と1対1の「スール(姉妹)」関係を結ぶというしきたりがあるんです。
それは厳しい校則で縛ること無く、生徒達が自主的にモラルを保てるように設けられた、つまりジェダイ騎士の師弟関係みたいなもんで、昔は実際にそんな風習のある女子校が存在したそうなんですね(今も?)。
でも、そこは思春期の女の子ですから、好きな相手、尊敬出来る相手、相性の良い相手を選べば、友情はもちろん、恋愛感情だって生まれちゃうワケです。
で、主人公の祐巳(ゆみ)は庶民派の下級生なんだけど、憧れのスター上級生・祥子(さちこ)からいきなりスール関係を結びたいと、まぁ言わば告白されちゃうんです。
まるで安物のケータイ小説みたいじゃないかとお思いでしょうがw、まぁ最後まで聞いて下さいm(__)m
スター・祥子様が一見凡人の祐巳にいきなり告白したのには理由がありまして、演劇部も兼ねる生徒会の役員である彼女は、学園祭の出しもの『シンデレラ』のヒロイン役に選ばれたんだけど、どうしてもやりたくなかった。
それで他の役員達と口論になり、自分のスールも見つけられないような人が生意気を言わないで、みたいな売り言葉に、買い言葉で「じゃあ今すぐ見つけて来ます!」と啖呵を切って飛び出した所で、祐巳とぶつかった。
ここで、祥子はビビッと来たんだと思います。祐巳に何かを感じて、即座に「この子をスールにします」と決めちゃう。
でも、祐巳からすれば、たまたま自分がそこにいたから選ばれただけ、としか思えない。憧れの人、本当に好きな人だからこそ、こんな形でスール関係を結びたくはない。
相手からロザリオを受け取った瞬間にスール関係が成立する習わしなんだけど、祐巳はそれを拒否しちゃう。
最終的にはもちろん、祐巳が祥子からロザリオを受け取るワケですが、そこに至るまでの葛藤や人間模様が、今回の実写版=アニメ3話分=小説第1巻で描かれてます。
私があらためて注目したのは、祥子がなぜ、祐巳と出会ってビビッと来たのか?についてです。一目惚れと言ってしまえばそれまでだけど、そんな単純なもんじゃないんです。
まず祥子がなぜ、シンデレラ役をやりたくなかったか? その理由は、相手役にありました。隣町の名門男子校のイケメンがゲスト出演で王子を演じるのですが、祥子は極度の男嫌いなんですね。
その「男嫌い」にこそ、祥子の抱える「心の闇」が隠されてる。彼女の父親も祖父も、余所で女を囲うような男であった事が原因らしいけど、どうもそれだけじゃ無さそうなんです。
祥子にも上級生のスールがいて、彼女もなんとか祥子の男嫌いを克服させたいと思い、あえてこんなキャスティングをしたワケだけど、うまくいかない。
ところが祐巳は、自然と祥子の心を開かせてしまうんです。祐巳自身は全く無自覚なんだけど、彼女の天然さ、謙虚さ、優しさが、プライドの高い祥子の分厚いバリアを、少しずつ溶かしちゃう。
実は相手役のイケメン、祥子の許婚だった事が判明するんだけど、なぜ彼女が頑なに彼を避けるのか、誰にも分からない。
でも祐巳と二人きりになった時、祥子は決して人前では見せなかった涙を流して、真相を打ち明けるんです。
祥子はそのイケメンが実は好きなんだけど、相手はそうじゃなかった。彼はゲイなんです。(←アニメではそこまで語られてなかったのですが、原作ではどうなんでしょう?)
なのに、彼は祥子との結婚を望んでる。要するに、彼女をカモフラージュの道具としか思ってない。それを知って、祥子は心に深い傷を負ったワケです。
好きな相手から、好きでもないのに求められる事の辛さ… それは祐巳の心情にもリンクしてます。でも実は祥子、本当に祐巳に惹かれてるんですよね。
象徴的な台詞が二つありました。一つは、真相を祐巳に告白した後で祥子が言った、
「聞いてくれて有難う。懺悔と一緒よ。誰にも言えなかったから辛かったの」
もう一つは、祥子が祐巳と出会う前にスール関係を申し出て、それを断っちゃった女の子・志摩子が、その理由を祐巳に問われて言った台詞…
「私達は、相手に求めるものが違うの。だから、与えられるものも違うわ」
…それぞれが相手に求めるものって、何なのか? 祥子が求めてたものって?
それが、懺悔=救済だったんじゃないでしょうか? そうです。『マリみて』もまた、『つばさ』と同じ「魂の救済ドラマ」なんですよ! 教会でやる懺悔って、要するにカウンセリングみたいなもんですよね?
トラウマを抱える祥子は「救われたい人」であるにも関わらず、常に優等生であるように躾けられ、実際に学園のスターになったばかりに、誰にも救いを求める事が出来なかった。
志摩子も優等生で、どちらかと言えば救われたい人であり、救われたい者どうしが絆を結んでもうまくいかない事を、本能的に察知したんじゃないかと思います。
だけど、祐巳は… ドジだけど純真で無垢な天使、マリア様の使いみたいな慈悲深い女の子です。
出会った瞬間に、もちろん無意識でしょうけど、祥子は天使=祐巳に救いを求めたんじゃないでしょうか?
そして祐巳は、救いたい人なんです。これが、相手に求めるものが一致するって事だと思います。相性っていうのは、そういうものなんでしょう、きっと。
祥子は祐巳にトラウマを吐露=懺悔する事で迷いを吹っ切り、見事にシンデレラの舞台を演じて、呪縛から解き放たれます。そして純粋な気持ちの証としてロザリオを差出し、祐巳はそれを受け取るのでした。
『マリみて』は宗教的な世界を背景にしたラブストーリーだと今まで思ってたけど、実際はその逆で、ラブストーリーの形を借りた救済のドラマだったんですよね、少なくとも小説の第1巻目は。
『つばさ』にも又、千手観音が象徴的に登場しました。多部ちゃんの画像を見て、サントラさんが「観音様みたいに見える」ってコメントしてくれた事がありましたけど、もしかしたら多部ちゃんがつばさ役に選ばれた一番の理由は、それだったりするのかも!?
私が『マリみて』実写版を観始めてまず思ったのは、祥子役の女優さんが地味やなぁと。祐巳役の子(画像)の方が明らかに華があるのは、ちょっと問題やなぁって事だったのですが…
でも観終わったら、それで正解だと思えました。トラウマを抱えて救いを求めてる女の子がキラキラ輝いてたら、本質的なテーマが伝わらないですから。
実際、実写版の祥子は祐巳と出会ってから、後半になるにつれ輝いて見えるよう変化して行きました。これは祐巳じゃなくて祥子の成長物語なんですよね。
ライトノベルズって、連載漫画と同じで人気が出たらどんどん延長されちゃうもんだから、『マリみて』も第2巻以降は普通のラブストーリーになって行きます。
アニメ版はそれを踏まえてか、救済ドラマとしての描写は控えめになってた印象です。実写版は逆に、救済ドラマとしての根幹にこそ、的を絞って創られた感じがします。だから本質に気づけたんですよね(全く見当外れかも知れないけど)。
アニメ版の最終章(第4シーズン)では、祐巳が下級生のスールを選ぶ立場になるんですが、相手はやっぱり心に傷を負って、簡単には心を開かない(そして本当は救いを求めてる)女の子なんですよね。
原作でもそれが一応の最終章(でもたぶん終わらせてもらえない)ですから、今野さんは普通のラブコメになっちゃった『マリみて』を原点の救済ドラマに戻して、有終の美を飾りたかったんじゃないでしょうか?
凡百の百合アニメがどうしても『マリみて』の感動を超えられないのは、その本質が「魂の救済」にある事を見落としてるせい、かも知れません。
だからきっと『マリみて』なら、『つばさ』フリークスの皆さんにも楽しんでもらえそうな気がします。その本質的な魅力を知って頂くには、やっぱ原作小説の第1巻がオススメかと(私は読んでないんですがw)。
実写版ですが、前述の通り物語の本質を外すこと無く、アニメ版よりも伝わり易く創られてますので、充分に見応えがありました。
各キャストがイメージに合ってるかどうかは微妙ですが、生身の人間が小説やアニメキャラのイメージと合致するなんて有り得ないですから、そこを突っ込むのはナンセンスだと思います。
知る人ぞ知る存在の『マリア様がみてる』ですが、もっと広く認知されて然るべき作品だと、私は思います。
『マリみて』がきっかけで百合(女子どうしの恋が描かれる)アニメ作品をいくつか観まして、それぞれ面白かったのですが、決して『マリみて』を超える事は無かったんですよね。
『マリみて』は別格でした。アニメ作品としてのクオリティーでは、明らかに『マリみて』を凌駕してる『青い花』みたいな良作もあったけど、それでも『マリみて』で得られた感動には及ばなかったです。
なぜ『マリみて』は特別なのか? なぜ、あんなに深く感動出来るのか? 同じ百合を扱ってる他の作品群と、いったい何が違うのか?
その答えが今回、実写版を観てやっと解りましたよ! これは半年掛かりの『つばさ』レビューを終えた、今だからこそ出せた答えです。
それだけ言えば、『つばさ』レビューを最後まで読んで下さった方には、ピンと来るんじゃないかと思いますが…
原作は今野緒雪さんによるティーン向けの小説(いわゆるライトノベルズ)で、映画はその第1巻目(アニメだと最初の3話分)の内容がほぼ忠実に映像化されてます。
簡単に説明しますと、舞台は現代、高貴な家柄のお嬢様たちが集うカトリック系のミッションスクール=私立リリアン女学院。この学園では昔から、上級生が下級生と1対1の「スール(姉妹)」関係を結ぶというしきたりがあるんです。
それは厳しい校則で縛ること無く、生徒達が自主的にモラルを保てるように設けられた、つまりジェダイ騎士の師弟関係みたいなもんで、昔は実際にそんな風習のある女子校が存在したそうなんですね(今も?)。
でも、そこは思春期の女の子ですから、好きな相手、尊敬出来る相手、相性の良い相手を選べば、友情はもちろん、恋愛感情だって生まれちゃうワケです。
で、主人公の祐巳(ゆみ)は庶民派の下級生なんだけど、憧れのスター上級生・祥子(さちこ)からいきなりスール関係を結びたいと、まぁ言わば告白されちゃうんです。
まるで安物のケータイ小説みたいじゃないかとお思いでしょうがw、まぁ最後まで聞いて下さいm(__)m
スター・祥子様が一見凡人の祐巳にいきなり告白したのには理由がありまして、演劇部も兼ねる生徒会の役員である彼女は、学園祭の出しもの『シンデレラ』のヒロイン役に選ばれたんだけど、どうしてもやりたくなかった。
それで他の役員達と口論になり、自分のスールも見つけられないような人が生意気を言わないで、みたいな売り言葉に、買い言葉で「じゃあ今すぐ見つけて来ます!」と啖呵を切って飛び出した所で、祐巳とぶつかった。
ここで、祥子はビビッと来たんだと思います。祐巳に何かを感じて、即座に「この子をスールにします」と決めちゃう。
でも、祐巳からすれば、たまたま自分がそこにいたから選ばれただけ、としか思えない。憧れの人、本当に好きな人だからこそ、こんな形でスール関係を結びたくはない。
相手からロザリオを受け取った瞬間にスール関係が成立する習わしなんだけど、祐巳はそれを拒否しちゃう。
最終的にはもちろん、祐巳が祥子からロザリオを受け取るワケですが、そこに至るまでの葛藤や人間模様が、今回の実写版=アニメ3話分=小説第1巻で描かれてます。
私があらためて注目したのは、祥子がなぜ、祐巳と出会ってビビッと来たのか?についてです。一目惚れと言ってしまえばそれまでだけど、そんな単純なもんじゃないんです。
まず祥子がなぜ、シンデレラ役をやりたくなかったか? その理由は、相手役にありました。隣町の名門男子校のイケメンがゲスト出演で王子を演じるのですが、祥子は極度の男嫌いなんですね。
その「男嫌い」にこそ、祥子の抱える「心の闇」が隠されてる。彼女の父親も祖父も、余所で女を囲うような男であった事が原因らしいけど、どうもそれだけじゃ無さそうなんです。
祥子にも上級生のスールがいて、彼女もなんとか祥子の男嫌いを克服させたいと思い、あえてこんなキャスティングをしたワケだけど、うまくいかない。
ところが祐巳は、自然と祥子の心を開かせてしまうんです。祐巳自身は全く無自覚なんだけど、彼女の天然さ、謙虚さ、優しさが、プライドの高い祥子の分厚いバリアを、少しずつ溶かしちゃう。
実は相手役のイケメン、祥子の許婚だった事が判明するんだけど、なぜ彼女が頑なに彼を避けるのか、誰にも分からない。
でも祐巳と二人きりになった時、祥子は決して人前では見せなかった涙を流して、真相を打ち明けるんです。
祥子はそのイケメンが実は好きなんだけど、相手はそうじゃなかった。彼はゲイなんです。(←アニメではそこまで語られてなかったのですが、原作ではどうなんでしょう?)
なのに、彼は祥子との結婚を望んでる。要するに、彼女をカモフラージュの道具としか思ってない。それを知って、祥子は心に深い傷を負ったワケです。
好きな相手から、好きでもないのに求められる事の辛さ… それは祐巳の心情にもリンクしてます。でも実は祥子、本当に祐巳に惹かれてるんですよね。
象徴的な台詞が二つありました。一つは、真相を祐巳に告白した後で祥子が言った、
「聞いてくれて有難う。懺悔と一緒よ。誰にも言えなかったから辛かったの」
もう一つは、祥子が祐巳と出会う前にスール関係を申し出て、それを断っちゃった女の子・志摩子が、その理由を祐巳に問われて言った台詞…
「私達は、相手に求めるものが違うの。だから、与えられるものも違うわ」
…それぞれが相手に求めるものって、何なのか? 祥子が求めてたものって?
それが、懺悔=救済だったんじゃないでしょうか? そうです。『マリみて』もまた、『つばさ』と同じ「魂の救済ドラマ」なんですよ! 教会でやる懺悔って、要するにカウンセリングみたいなもんですよね?
トラウマを抱える祥子は「救われたい人」であるにも関わらず、常に優等生であるように躾けられ、実際に学園のスターになったばかりに、誰にも救いを求める事が出来なかった。
志摩子も優等生で、どちらかと言えば救われたい人であり、救われたい者どうしが絆を結んでもうまくいかない事を、本能的に察知したんじゃないかと思います。
だけど、祐巳は… ドジだけど純真で無垢な天使、マリア様の使いみたいな慈悲深い女の子です。
出会った瞬間に、もちろん無意識でしょうけど、祥子は天使=祐巳に救いを求めたんじゃないでしょうか?
そして祐巳は、救いたい人なんです。これが、相手に求めるものが一致するって事だと思います。相性っていうのは、そういうものなんでしょう、きっと。
祥子は祐巳にトラウマを吐露=懺悔する事で迷いを吹っ切り、見事にシンデレラの舞台を演じて、呪縛から解き放たれます。そして純粋な気持ちの証としてロザリオを差出し、祐巳はそれを受け取るのでした。
『マリみて』は宗教的な世界を背景にしたラブストーリーだと今まで思ってたけど、実際はその逆で、ラブストーリーの形を借りた救済のドラマだったんですよね、少なくとも小説の第1巻目は。
『つばさ』にも又、千手観音が象徴的に登場しました。多部ちゃんの画像を見て、サントラさんが「観音様みたいに見える」ってコメントしてくれた事がありましたけど、もしかしたら多部ちゃんがつばさ役に選ばれた一番の理由は、それだったりするのかも!?
私が『マリみて』実写版を観始めてまず思ったのは、祥子役の女優さんが地味やなぁと。祐巳役の子(画像)の方が明らかに華があるのは、ちょっと問題やなぁって事だったのですが…
でも観終わったら、それで正解だと思えました。トラウマを抱えて救いを求めてる女の子がキラキラ輝いてたら、本質的なテーマが伝わらないですから。
実際、実写版の祥子は祐巳と出会ってから、後半になるにつれ輝いて見えるよう変化して行きました。これは祐巳じゃなくて祥子の成長物語なんですよね。
ライトノベルズって、連載漫画と同じで人気が出たらどんどん延長されちゃうもんだから、『マリみて』も第2巻以降は普通のラブストーリーになって行きます。
アニメ版はそれを踏まえてか、救済ドラマとしての描写は控えめになってた印象です。実写版は逆に、救済ドラマとしての根幹にこそ、的を絞って創られた感じがします。だから本質に気づけたんですよね(全く見当外れかも知れないけど)。
アニメ版の最終章(第4シーズン)では、祐巳が下級生のスールを選ぶ立場になるんですが、相手はやっぱり心に傷を負って、簡単には心を開かない(そして本当は救いを求めてる)女の子なんですよね。
原作でもそれが一応の最終章(でもたぶん終わらせてもらえない)ですから、今野さんは普通のラブコメになっちゃった『マリみて』を原点の救済ドラマに戻して、有終の美を飾りたかったんじゃないでしょうか?
凡百の百合アニメがどうしても『マリみて』の感動を超えられないのは、その本質が「魂の救済」にある事を見落としてるせい、かも知れません。
だからきっと『マリみて』なら、『つばさ』フリークスの皆さんにも楽しんでもらえそうな気がします。その本質的な魅力を知って頂くには、やっぱ原作小説の第1巻がオススメかと(私は読んでないんですがw)。
実写版ですが、前述の通り物語の本質を外すこと無く、アニメ版よりも伝わり易く創られてますので、充分に見応えがありました。
各キャストがイメージに合ってるかどうかは微妙ですが、生身の人間が小説やアニメキャラのイメージと合致するなんて有り得ないですから、そこを突っ込むのはナンセンスだと思います。
知る人ぞ知る存在の『マリア様がみてる』ですが、もっと広く認知されて然るべき作品だと、私は思います。