画像は本文と全く関係なく、『セレソンDX』の一場面です。今夜10時『大奥〜誕生』要チェック!
さて今日、Deepさんのコメントにレスを書いてる内に、朝ドラ『純と愛』が何を描こうとしてる番組なのかが、何となく…いや、かなり具体的に見えた気がしましたので、ここに発表したいと思います。
これはレスに書きましたように、純(夏菜)というキャラクターが、脚本・遊川和彦さんの分身であるという仮説に基づいての考察です。この前提が間違ってたら話になりません。
でも、登場人物に作者自身が投影されるのはごく当たり前の事ですから、全く見当違いなんて事は無かろうと思います。
遊川さんは、撮影現場に足を運び、俳優達に対してズバズバとキツイ言葉を投げ掛け、自ら演技指導までやっちゃいます。監督を差し置いて脚本家がそんな事をするなんて、通常ではあり得ない事です。
『純と愛』が早くも10話を越えて、予想通り賛否両論の声が視聴者から挙がってるみたいだけど、否定派の人の意見は、大方こんな内容だそうです。
「純の言動はホテル従業員としてあり得ない」
「文句ばっかり言って周りに迷惑を掛ける、傲慢なヒロインに好感が持てない」
純(ヒロイン)→遊川氏、ホテル従業員→脚本家、と置き換えれば、そのまんま遊川さんに対する批判になりますよねw
今、純が味わってる挫折や苦悩は、若い頃の遊川さんの姿そのものなんだろうと私は思います。
遊川作品は『女王の教室』『家政婦のミタ』しか観てないけど、今回ほどストレートに自分自身を主人公に投影した事って、今まで無かったんじゃないでしょうか?
なぜ遊川さんは、若い頃の自分を今、国民的番組と言われる朝ドラで描こうとしているのか? それはもしかしたら、『家政婦のミタ』が視聴率40%の大ヒットを記録した事がきっかけかも知れません。
若い頃の遊川さんは、今の純みたいに周囲から疎まれ、馬鹿にされてた事は間違いないだろうと思いますw
あの人の事だから「俺は視聴率40%を獲れるドラマを書いてみせる!」ぐらいの事を、本気で言ってたかも知れません。
当然、周りの業界人は「アホか」と冷ややかに笑い、遊川さんを「おい、40%」みたいに呼んでたかも。純の「社長」発言と同じように。
ところが遊川さんは、有言実行してしまった。その時、彼を馬鹿にしてた人らはどうしたでしょう? たぶん、手のひらを返して媚を売り始めたんじゃないですか? 商売の為なら、平気でそうする事でしょう。
そもそも、自分の書いたドラマが視聴者からあんなに支持されたこと自体、遊川さんからすれば「お前ら、本気かよ?」ってなもんだったかも知れません。
遊川さんはずっと周りの人から疎まれ、孤独でした。いや、ご本人がそう言ってたんですw だから、今までさんざん俺の存在を否定して来たクセに、なんでそこまでお前らは俺の分身=作品を受け入れられるんだ?みたいに、矛盾を感じたかも知れません。
だったら、この俺がどんな人間なのか、あらためて見せてやろうじゃないか。これが俺という人間だ。お前ら、それでも俺をチヤホヤ出来るのか?と、そういう思いで純というキャラクターを創ったんじゃないでしょうか?
で、案の定、視聴者は戸惑ってるワケです。こんなうっとおしいヒロインは見たこと無いぞってw それはもう、完全に遊川氏の狙い通りなんでしょう。
だとしたら、今の純が礼節をわきまえずに突っ走り、周りとの調和を乱しまくるのは、今後の成長を描く為の前準備だろうっていう読みは、見事に裏切られるかも知れません。
『純と愛』は、あの女遊川みたいなヒロインが、断じて自分を変えないで生きてゆく為の闘いを描く物語…なんじゃないでしょうか?
だって、もし純が成長する=礼節をわきまえ、周りとの調和を重視して行動する人になるとしたら、「そのままのあなたでいて下さい」っていう愛(風間俊介)の願いを無視した事になりますもんね。
これは純と愛のラブストーリーなんだから、それはあり得ないんじゃないでしょうか?
変わるのは純ではなく、今彼女を馬鹿にしてる、周りの人達かも知れません。そう、遊川氏をさんざん馬鹿にし、疎んじて来たクセに、視聴率40%の結果を見て手のひらを返した人達のメタファーですよ。
だから、純は本当にあのホテルの社長になっちゃうかも知れない。今のご時世で視聴率40%を獲るのって、それに匹敵する位の快挙ですからね。
遊川さんは『ミタ』の大成功によって、ますます孤独になられたんじゃないでしょうか? 手のひらを返す人達を見て、愛くんみたいな心境になったかも知れません。
だから、純も愛もきっと、遊川さんの分身なんです。あんなに孤独なヒロインと、あんなに孤独な相手役が、これまでの朝ドラに存在したでしょうか?
本当の自分を偽れば、みんなと仲良くなれるかも知れない。ほとんどの人達は、そうしないと生きていけません。
でも、本当にそれでいいのか? そうするしか道は無いのか? そもそも、周りと調和して礼節をわきまえる事が、そんなに大事なことなのか?
そりゃあ、賛否両論にもなるでしょうw そして遊川さんならば、頑として成長しない主人公を、よりによって朝ドラというステージで、描き切って見せるかも知れません。
あり得ないと言われる事を実行する姿を描くドラマ。その為には、孤独を覚悟しないといけないって事も。
それを実践されてる人が生み出す作品ですから、あり得ない事が起こりますよ、きっと!
…って、今日思ったんですけど、如何なもんでしょう?
さて今日、Deepさんのコメントにレスを書いてる内に、朝ドラ『純と愛』が何を描こうとしてる番組なのかが、何となく…いや、かなり具体的に見えた気がしましたので、ここに発表したいと思います。
これはレスに書きましたように、純(夏菜)というキャラクターが、脚本・遊川和彦さんの分身であるという仮説に基づいての考察です。この前提が間違ってたら話になりません。
でも、登場人物に作者自身が投影されるのはごく当たり前の事ですから、全く見当違いなんて事は無かろうと思います。
遊川さんは、撮影現場に足を運び、俳優達に対してズバズバとキツイ言葉を投げ掛け、自ら演技指導までやっちゃいます。監督を差し置いて脚本家がそんな事をするなんて、通常ではあり得ない事です。
『純と愛』が早くも10話を越えて、予想通り賛否両論の声が視聴者から挙がってるみたいだけど、否定派の人の意見は、大方こんな内容だそうです。
「純の言動はホテル従業員としてあり得ない」
「文句ばっかり言って周りに迷惑を掛ける、傲慢なヒロインに好感が持てない」
純(ヒロイン)→遊川氏、ホテル従業員→脚本家、と置き換えれば、そのまんま遊川さんに対する批判になりますよねw
今、純が味わってる挫折や苦悩は、若い頃の遊川さんの姿そのものなんだろうと私は思います。
遊川作品は『女王の教室』『家政婦のミタ』しか観てないけど、今回ほどストレートに自分自身を主人公に投影した事って、今まで無かったんじゃないでしょうか?
なぜ遊川さんは、若い頃の自分を今、国民的番組と言われる朝ドラで描こうとしているのか? それはもしかしたら、『家政婦のミタ』が視聴率40%の大ヒットを記録した事がきっかけかも知れません。
若い頃の遊川さんは、今の純みたいに周囲から疎まれ、馬鹿にされてた事は間違いないだろうと思いますw
あの人の事だから「俺は視聴率40%を獲れるドラマを書いてみせる!」ぐらいの事を、本気で言ってたかも知れません。
当然、周りの業界人は「アホか」と冷ややかに笑い、遊川さんを「おい、40%」みたいに呼んでたかも。純の「社長」発言と同じように。
ところが遊川さんは、有言実行してしまった。その時、彼を馬鹿にしてた人らはどうしたでしょう? たぶん、手のひらを返して媚を売り始めたんじゃないですか? 商売の為なら、平気でそうする事でしょう。
そもそも、自分の書いたドラマが視聴者からあんなに支持されたこと自体、遊川さんからすれば「お前ら、本気かよ?」ってなもんだったかも知れません。
遊川さんはずっと周りの人から疎まれ、孤独でした。いや、ご本人がそう言ってたんですw だから、今までさんざん俺の存在を否定して来たクセに、なんでそこまでお前らは俺の分身=作品を受け入れられるんだ?みたいに、矛盾を感じたかも知れません。
だったら、この俺がどんな人間なのか、あらためて見せてやろうじゃないか。これが俺という人間だ。お前ら、それでも俺をチヤホヤ出来るのか?と、そういう思いで純というキャラクターを創ったんじゃないでしょうか?
で、案の定、視聴者は戸惑ってるワケです。こんなうっとおしいヒロインは見たこと無いぞってw それはもう、完全に遊川氏の狙い通りなんでしょう。
だとしたら、今の純が礼節をわきまえずに突っ走り、周りとの調和を乱しまくるのは、今後の成長を描く為の前準備だろうっていう読みは、見事に裏切られるかも知れません。
『純と愛』は、あの女遊川みたいなヒロインが、断じて自分を変えないで生きてゆく為の闘いを描く物語…なんじゃないでしょうか?
だって、もし純が成長する=礼節をわきまえ、周りとの調和を重視して行動する人になるとしたら、「そのままのあなたでいて下さい」っていう愛(風間俊介)の願いを無視した事になりますもんね。
これは純と愛のラブストーリーなんだから、それはあり得ないんじゃないでしょうか?
変わるのは純ではなく、今彼女を馬鹿にしてる、周りの人達かも知れません。そう、遊川氏をさんざん馬鹿にし、疎んじて来たクセに、視聴率40%の結果を見て手のひらを返した人達のメタファーですよ。
だから、純は本当にあのホテルの社長になっちゃうかも知れない。今のご時世で視聴率40%を獲るのって、それに匹敵する位の快挙ですからね。
遊川さんは『ミタ』の大成功によって、ますます孤独になられたんじゃないでしょうか? 手のひらを返す人達を見て、愛くんみたいな心境になったかも知れません。
だから、純も愛もきっと、遊川さんの分身なんです。あんなに孤独なヒロインと、あんなに孤独な相手役が、これまでの朝ドラに存在したでしょうか?
本当の自分を偽れば、みんなと仲良くなれるかも知れない。ほとんどの人達は、そうしないと生きていけません。
でも、本当にそれでいいのか? そうするしか道は無いのか? そもそも、周りと調和して礼節をわきまえる事が、そんなに大事なことなのか?
そりゃあ、賛否両論にもなるでしょうw そして遊川さんならば、頑として成長しない主人公を、よりによって朝ドラというステージで、描き切って見せるかも知れません。
あり得ないと言われる事を実行する姿を描くドラマ。その為には、孤独を覚悟しないといけないって事も。
それを実践されてる人が生み出す作品ですから、あり得ない事が起こりますよ、きっと!
…って、今日思ったんですけど、如何なもんでしょう?